みなさんこんばんは!宇宙ビジネスMEDIA編集長の池田 真大(いけだ まさとも)です!

今回はタイトル通りではありますが、国際宇宙ステーション(ISS)の設計から開発・運用まで携わっていた名古屋大学宇宙地球環境研究所田中秀孝特任教授にインタビューさせて頂きました!!!!

インタビューをさせて頂くきっかけになったのは、2020年8月に行われた名古屋大学での『民間における宇宙利用』2週間基礎コースに参加し、講義を受けさせて頂き、インタビューを申し込みました。

その時の体験記事も掲載していますので合わせて読んでください!

名古屋大学の「民間における宇宙利用」 2週間基礎コース受講体験記事!(前半戦)

名古屋大学の「民間における宇宙利用」 2週間基礎コース受講体験記事!(後半戦)

前回受講した「民間における宇宙利用」が2021年3月にも開催され、田中先生にはその対応に追われている中でお時間を頂きインタビューさせてもらいました!

どこでも聞ける内容ではない国際宇宙ステーションのお話、日本初の有人宇宙システム『きぼう』のお話、存分にご堪能ください。

田中秀孝特任教授の経歴

1975年 大阪府立大学院工学研究科機械工学専攻博士課程入学。同年ミシガン大学航空宇宙工学科留学。

1981年 三菱重工株式会社入社。名古屋航空機製作所宇宙機器部配属。H-1ロケットの概念設計、スペースシャトル実験機器設計に従事。

1982年 宇宙ステーションの参加構想を宇宙開発委員会に提案。基本構想と技術検討を実施。

1994年 アメリカ三菱重工 NASAジョンソンスペースセンター技術調整事務所長に就任。米、加、ヨーロッパ各国、ロシアと国際間技術調整に従事。

2005年 JAXA NASA ケネディスペースセンター射場責任者代理として、打ち上げまでの射場作業に従事。

2014年 名古屋大学大学院工学研究科航空宇宙工学専攻特任教授として、『フロンティア宇宙開拓リーダー養成プログラム』を担当。

2019年 名古屋大学 宇宙地球環境研究所 宇宙開発利用推進室 特任教授。


インタビュースタート

(池田)

よろしくお願いします!

田中先生のご経歴を拝見するとやはり、国際宇宙ステーション「きぼう」に設計段階からずっと携わってこられたところが大きいと感じていますので、携わることになったきっかけや経緯からお聞かせいただけますか。

(提供:JAXA)

(田中先生)

振り返ると歴史的に色んな話をしなければいけないのですが、宇宙、「きぼう」に携わり始めたのが、三菱重工に入社してから2、3年した頃にアメリカから日本に「国際宇宙ステーションのプロジェクトに参加しませんか?」と話がきたのが始まりです。レーガン大統領の時代ですね。

元々はレーガン大統領が日本と合意する2年くらい前の92年に参加打診の話がきていて、94年に正式に合意をして国際宇宙ステーションのプロジェクトが開始されます。

NASAは月面着陸やスペースシャトルの開発など、常に宇宙に対してナンバーワンであり続けるために新しいことにチャレンジしていました。

ただ、一国の力では限界があるので、各国に呼びかけをして国際宇宙ステーションの開発を行ったのです。

歴史的に見ればロシアがナンバーワンですが笑

(池田)

そうですね笑

ソ連の頃からの有人宇宙飛行のガガーリンや人工衛星のスプートニクとか世界初の業績が沢山ありますよね!

(田中先生)

当時は宇宙開発事業団(JAXAの前身)ができてまだ10年経ってない頃で、日本でのロケット開発など行われていましたが、有人としての開発は行ったことが無かったのです。

有人宇宙開発経験がない状況でアメリカからのISSプロジェクトへの呼びかけで、「日本としてどうするのか検討している」という話が飛び込んできて、私も宇宙開発には興味があり、特に有人の宇宙開発に興味があったので、初めてることにしました。

スタート段階は3人くらいのメンバーでした!

(池田)

えっ!?3人ですか?少ないですよね??

(田中先生)

我々が3人で、宇宙開発事業団の担当者が3人で、全部で6人のチームですね。

実際に作業していたのはそのうち3人でしたけど笑

(池田)

そんなに少ないと小さなプロジェクトに聞こえちゃいますよね。

(田中先生)

本当に何もないところか始めました。

当時の日本には有人宇宙についての技術は全くなく、データも無いのでゼロからのスタートで、NASAからは段ボール箱1箱に全然詰まっていない概要の資料が送られてきて、それを1週間でまとめましたが、それでも分からないことだらけでした。

そんな状態からなので、何から始めればいいのか?何を調べればいいのか分からない状態です。

まずは、『日本としてどうするのか』という話になるのですが、当時はワープロが出始める前の時代です。

そんな中で、上司と私と部下の3人で『今後、宇宙でどんなことができるか』をトレーシングペーパーに絵を描いていました。

かたや周りでは、一生懸命ロケットの話ばかりしていました。

その中で私たち3人は絵を描いて、『どういう風にできるか』考えて提案など進めていました。

当時はH-Iを着手しようとしているタイミングで、ロケットに携わっている人が多く、ロケットの人からは「今の日本の技術でそんなこと(有人宇宙)できるわけないでしょ!何をバカなことをして遊んでいるんだ!」みたいな事を言われるような状況だったんですよ(笑)

そういう中で色々な絵を描いて、その時の構想にはISSの様な丸い形状のものや、ISSに行くための軌道と軌道を輸送するテレオペレーターと呼んでいたモノや、有人の一人が乗って操作する小型の宇宙船など宇宙のインフラストラクションの絵を描いて提案しました。

軌道間輸送機や今で言うHTVなどの夢物語な絵を描いていましたね。

これがスタートですね。

この構想を現実にするためにはもっともっと、いろんなことを検討しなければいけなく、時間はかなりかかりましたが、段々と絞り込んでいって何を実現させるか、実現させていく上では更に沢山の事を考えていかなければいけないのです。

(池田)

ゼロからアイデアを考え出すことも大変だし、日本初の有人宇宙システムともなると想像できないレベルですね。

(田中先生)

なぜ私がこのプロジェクトのスタートの話をしたかというと、宇宙ビジネスはいろんな発想が出てくると思います。

幅広い発想力や富んだ想像力が必要になってくると思っています。

自分の経験上、そういった発想力や想像力から絞り込まれていき実現していくはずです。

(池田)

ISSにゼロから携わっていた田中先生から言われると説得力が違いますね!

(田中先生)

当時の科学技術庁(現:文部科学省)からどうすれば予算が降りるかを考えて、各企業から東京に人材が集められて、どういう風に提案していくかという集まりを数ヶ月間行っていました。

その時のメンバー7人が七人の侍と呼ばれていたんです(笑)

(池田)

かっこいいですね!!!

(田中先生)

私はその七人の侍の取りまとめなどして、いろんなメーカーの人たちとやりとりをしていました。

宇宙開発事業団の担当者の人が科学技術庁に行って我々が作った資料を提出して帰ってきたら「この資料を明日の夕方までに修正してくれ!」と言われ何度も全員徹夜で作業をしたのを覚えています(笑)

3人が7人に増え、20人になり、80人になりと段々と日本のチームとしてメンバーが増えていきました。

ここまでが初期の概念設計のタイミングです。

そこからは基本設計に入っていくのですが、ISSも簡単に出来上がった訳では無いんです。

私は27年間携わりました。

(池田)

もちろん簡単に出来上がったとは多分誰も思っていないですよ!!

(田中先生)

元々はNASAの50周年の記念として、10年くらいで完成する予定だったんですよ(笑)

(池田)

えっ!?そうだったんですか??

(田中先生)

10年くらいで作ろうとしていたのですが、予算が無くなったり、チャレンジャー事故やコロンビア号事故などありましたからね。

事故当時、私はもうジョンソンスペースセンターにいて、ヒューストンの技術調整事務所で国際間の調整をするために1994年から行っていました。

それまでは、宇宙分野において国際間協力というものはそんなに沢山あった訳ではなく、ロケットについても買ってきた機体を研究して自分たちで作るために技術導入をしていた時代でしたが、ISSの場合は、技術導入ではなく、国際間協力という仕組みで取り組んでいるのでそれまでの流れとはちょっと違ってきます。

いろんな国が集まってのプロジェクトで、各国のデザインオーソリティは各国が責任を持つので、NASAが責任を持つ訳ではありません。

しかし、お互いのインターフェースを合わせたり、データの送受信などのシステムを共通化しなければいけない事もあるので、大きな意味での国際間協力が必要不可欠で、どうやって進めていくかが非常に難しく大変でしたが、ISSを通して国際間協力の基盤が構築できた事は私の中で大きなことですね。

(池田)

ゼロからのプロジェクトで、日本にも技術がない状態から国同士の協力関係の構築は想像もつかないくらいに大変だったんでしょうね。

(田中先生)

最初の頃に、初めてNASAのジョンソンスペースセンターに出張に行ったときに私がした事って何だと思いますか?

(池田)

う〜ん。。NASAのメンバーとの会議ですか?

(田中先生)

会議もありましたが、当時の日本には有人宇宙飛行のデータが何も無かったので「貸してもらえるデータを全部見せてください」とお願いをしました。

今振り返ってみると『こんな簡単なことしか書いてないの?』と思うような内容でしかなかったのですが、当時の日本にとってはそれでさえも貴重でした。

NASAの担当者にステーションの参考になるような資料は無いのか聞いたところ、資料のリストをもらえたのですが、その資料はNASAの図書館にあり、貸し出せる期間は1日3冊までしかダメと言われました。

仕方がないので、1日3冊借りて概要をまとめたり、抜き出したりして次の日には返して、また別の3冊を借りてくるということを1週間続けました!

(池田)

えぇー!それは大変ですね!

今みたいに、データでのやり取りではなく、技術書から書き出したわけですよね。

(田中先生)

やっぱり有人は無人とは全く違うんですよ。

大きく分けると宇宙のシステムでは、『無人のシステム』と『有人のシステム』があるのですが、無人のシステムはそこまで考えなくても大丈夫なのですが、有人のシステムは安全性が第一で、安全性には何が必要か、人が住むためにはどうすればいいのか考えなければいけません。

空気が漏れてもダメ、火事がきてもダメ、毒ガスが発生してもダメ、カビや細菌などが発生してはダメ、などなど考え出すと安全性を保つための観点はたくさん出てきます。

最近ではデブリの話題も増えていますが、当時はあまり分かっていなかった状況で、どうやって防いでいくかも考えました。

私が当時重点を置いたのが、宇宙医学人間工学です。

宇宙医学というのは、宇宙に行くと赤血球が変わり体重も変化します。

体液が上にあがり、骨密度も減るし、放射線もあるので人体に作用することを学びました。

人間工学は地上分野での航空機や自動車はあったのですが、あくまで地上でのことなので、宇宙とは別なのです。

宇宙では無重量なので、上下の感覚がなくなります。

宇宙酔いというものは、目と重力と皮膚の感覚が地上と異なるので、脳が処理できずに混乱しておこります。

簡単な例を挙げると、パソコンのタイピングは宇宙に行くと普段のようにはできなくなります。

(池田)

無重力だから固定しないとタイピングがまともに出来ないって事ですか?

(田中先生)

それもありますが、重力のある地上での目線の中心と無重力の宇宙での目線の中心とでは変わってしまうんです。

脳で慣れている目線の感覚でいると、タイピングの誤打率が上がる結果が出ています。

その違いも計算に入れてパソコンの置く位置を決めています。

また、宇宙飛行士に極力負荷をかけないようにするために、作業の流れである動作曲線も考えて細かな物の配置も考えました。

そういう事を考えて、設計やデザインを行うので、きぼう(JEM)も今の形になるまでに5回くらいは変わっています。

最初は、電車型とか連結型とかアイデアが出ました。

アメリカのスカイラブ(skylab)はサターンロケットV型を改造して作られた実験宇宙ステーションで、2階建ての縦型だったのですが、『使いづらい』ということで、今の横型になりました。

(提供:NASA)

宇宙で大切なことの一つで、『上下感覚を持たせる』ことです。

上下感覚を持たせるために必要なのは、照明の位置風の位置です。

(池田)

色ですか?意識していませんでした。

(田中先生)

色によって上下が変わると人間は認識します。

また、狭い密室空間での精神的インパクトを下げるためにどんな色にしたらいいのか、潜水艦、刑務所、新幹線を調べてみました。

刑務所は窓が無いだけでも圧迫感が感じられるので、窓を設置したり、室内の色も床を少し重たい色にし、天井は明るい色を使いました。

色によって精神的負担を減らしたり、上下感覚をつけたりとしました。

また、人種によって好む色が違ってくるので、100人以上にアンケートを取って色を決めました。

NASAから色を決める際にも「日本はどんな色がいいですか?」と聞かれるのですが、「何でその色にしたのですか?」とも聞かれるので、明確な理由を出せるエビデンスが必要になってきます。

(池田)

そうですよね。流石にNASAに「何となくこの色が好きなので」なんて言えませんもんね(笑)

(田中先生)

国際協力の最初の頃、日本人エンジニアは言いたいことがあっても言わない、言えない事があって黙っていると、向こうの人たちは黙っているからアグリーしたものだと思って進めるので、文化の違いも克服しなければいけない大きな課題でした。

開発を続けていく中で、段々とお互いの意見を言い合える状態にはなっていき、今ではお互いの文化を理解した上での国際協力の関係ができていますが、最初は大変でした。

(池田)

日本人が国外の人に言いたくても言えないってのはよくありますよね。

(田中先生)

そうですね。だからこそ国際間調整の重要性を学べましたね。

(池田)

少し話戻ってしまうのですが、チャレンジャー事故、コロンビア号事故の時は田中先生は現地にいたんですよね。

(田中先生)

今でも忘れられない記憶ですね。

全員がおこらないと思っていた事故で、当時も「また打ち上げるねー」と会議室に集まって見ていたのですが、発射した何秒後かに突然爆発して、みんなは口を開けて何があったのか理解できないような状況でした。

時間にして数秒だったのか十数秒後だったかに、放送で「何か変だ!」と入ってからみんなが現実を受け止め、泣き出したり、悲鳴をあげました。

とても辛い記憶ではありますが、何故事故が起きたのかを考えていかなければいけません。

当時は、リスクに対して『おこらないもの』だと信じていることが多すぎました。特に設計者は自分の設計が一番正しいと思っているので。

ただ、それを無くしていかなければいけないので、他の人からの意見を取り入れる、専門分野とは違う人からの意見も聞くことが重要なのです。

日本がNASAから学んだのは『安全性に対してどう対処するか』 という事です。

NASAはそれまでの経験があるので、非常に厳しかったです。

想像の中ではありえないような事でも万が一を考えて対処方法を考えておく必要があり、かなり細かく設定していました。

(池田)

そうですよね。考えてもいない事が起こってしまったら不測の事態になってしまいますよね。

(田中先生)

そうです。

『想定外でした』という言葉は嫌いというか、あってはならない言葉だと思っています。

特に有人の場合は、『想定外でした』ということは、考えが不足していただけ。

想定外であれば許されるわけでは無いので、あらゆることを考え尽くしておくことが必要なのです。

だからこそ、有人には特にリスクマネージメントが重要なのです。

アポロの時代から開発や研究分野、エンジニアリングの分野でどんどん改良されてきているので、身にしみて実感しています。

(池田)

大変なことも経験されていますが、国際宇宙ステーションが成功した理由はなんだと思いますか?

(田中先生)

私の考えでは、みんなが『国際協力をやらなければいけいない』という思いがあったのと、みんなが同じ目標に向かっていこうという意識があったことです。

私の座右の銘としての2つの言葉があって『win-win ゲームをしましょう』『we’re in the same boat』です。

議論で噛み合わないことがあったらこれを言います(笑)

「僕たち同じ船に乗っているんですよね?沈没したら同じですよ?」

あなたの意見もわかるけど、私の意見もわかってくださいね。我々は同じ目標に向かっているチームですよね?と伝えて、同じ目標、方向性を持たせる事が重要で、全員とコミュニケーションを取るうえで、いい関係性を作っていたので、今でも当時からのNASAの友達がいます。

この国際宇宙ステーションの経験を経て、日本は有人宇宙開発において格段にレベルアップしたのは間違い無いです。

最初はNASAから赤ん坊、幼稚園生扱いをされていたところからちゃんとした大人の扱いを受けています。

JEMはISSのモジュールの中で一番大きいですし、騒音も少ないので、かなり高い評価を得ています。

(池田)

田中先生が考えるこれからの宇宙分野についてお聞かせください。

(田中先生)

開発と利用の2つのステップだと思います。

利用は民間に任せようという流れは国際宇宙ステーションの開発が終わる頃からNASAが打ち出していて、NASAはNASAしかできない事をやろうとなっています。

人工衛星のデータ利用についても、民間が進出していますが、データがどういう風に活かせるのかを考えていかなければいけません。

活かしていくうえでは、これからの社会のSociety5.0や、SDGs、第4次産業革命を視野に入れて、以下に還元できて、貢献できるかを考えていかなければいけません。

本当にいいもので、人のためになるものであればお金は集まってきます。

それを各国がそれぞれの立場で協力をして発展させていく必要があり、国際協力もせずに一人(1国)で抱え込んでいると、宇宙戦争になってしてしまうんですよ。

そうなると国際宇宙法の確立も急がなければいけないですが、まだ批准している国が少ないのが現状です。

国と民間が連携して大きなプロジェクトがいくつかありますが、そこから何をするか、何を目標にするかが大事で、これからの社会では『宇宙がもっと身近になりますよ』と、宇宙の専門家や好きな人たちだけではなく、一般の国民の人たちに身近に感じてもらうことが必要です。

これから訪れるデータ利用の社会では、便利なものが溢れてきますが、それが何故便利になっているか、仕組みを知っているのと、知らないのとでは大きく変わってくるので、リテラシーを持って社会に順応しなければいけません。

(池田)

知っていれば防げるリスクもありますしね!

衛生データの値段も幅広いですしね。

(田中先生)

そうそう。そういう面でもリスクマネジメントは大切です。

(池田)

宇宙が身近になっている部分で、私は測位衛生の位置情報システムや、衛生通信など連想するのですが、他にどんなものがありますか?

(田中先生)

人工衛星以外でもいろんな分野で宇宙での技術が転用されていますよ。

ヘルメットが軽くて丈夫になっていることや、食品のフリーズドライ加工、靴下や下着などの消臭効果、テンピュール素材など。

宇宙服も進化して来ていますが、もっと良いものが出来れば地上にも活かせると思っています。

熱やガス、放射線などから守ってくれる小さな宇宙船なのが宇宙服なので、災害救助や消防士など活用できると思っています。

技術開発も進んでいるので、今後もどんどん地上の物で宇宙での技術が使われる様になっていきますし、物以外でもデータをどうやって社会と結びつけていくかが大切だと思っています。

(池田)

本当に感じますね。

まだ私も勉強している最中ですが、私と同じように勉強を始めたばかりの人に向けて活動されている人たちも多く、宇宙をもっと身近に感じて欲しいと言っているのをたくさん聞いていて、宇宙は遠いところ、よく分からないところ、怖いところといったイメージではなく、すぐそこにある場所、気軽に行ける様になる場所というのを広めていきたいなと強く感じる様になっています。

あと何十年後には宇宙利用が当たり前の世の中になっていくはずですし。

(田中先生)

そうですね。社会の変化と共にどんどん加速するでしょうね。

一つの細かい分野ではなく、融合したものとして進んでいくので、知識をあたえる場が必要になっていきます。

私としては、大学からでは遅いと思っているので、これからの社会がどうなるのかは小学校、中学校から教えた方がいいくらいだと思っています。

そうしないと、技術の進化は急激に伸びていくので、同じスピードで付いていき、ビジネスとしてやるには、想像力や発想力、他のものとの融合力、それを俯瞰的に見る力が大切です。

私の考えでは、知識のステージはもう終わっているんです。

知識だけではなくこれからは、知識にプラスで知恵がないといけません。

(池田)

そうですね。2週間の超小型人工衛星のプログラムに参加させていただいて感じたのが、私はほとんど知識がなかったので、提案実習を行った際に、航空宇宙をやっている学生の方々が「推進力は高位風にした方がいい」とか「軌道の周り方はこう」、「姿勢制御はこうした方がいい」とか担当してくれている人がいて、私みたいにビジネス寄りに考えて「どんなプロジェクトなら投資を集められるかもしれない」、「これくらいのコストで実施すれば収益性を確保できるかもしれない」など、色んな分野の人間が混ざってプロジェクトが進められるんだなと、私としては凄く可能性が見えた気がしました。

航空宇宙を学んでいない私でも光が見えたというか、『まだ携われる可能性があるんだな』と感じました。

私みたいな立場の人もたくさんいると思うんですよ。

大学で宇宙を学んでいない人でも『宇宙ビジネスの舞台に立ちましょう』という活動は続けていきたいな思っています。

(田中先生)

やっぱり色んな分野の人が集まってやる必要があるんですよ。

宇宙の工学をやっている人だけが集まればできる訳ではないんですよ。

経済やビジネスの人がいないとお金を持って来れないですし、マネージャーがいないとまとまらないし、広告する人や法律家など色んな分野の人が集まってやる必要があります。

『宇宙はある特定の分野』という時代は終わっているので、特定分野だけでやっていては世界に太刀打ちできません。

だからこそ、2週間の短期講習ではチームワークやプロジェクトマネジメントの講義を行い、『チームで同じ目標に向かって、それぞれの能力を活かす』ことを意識的に行なっています。

『1 + 1 は5 以上にならないといけないんです。』

同じ分野の人が10人集まるよりも違う分野の人が10人集まった方がいいものができると私は思っています。

(池田)

田中先生がおっしゃっている事が分かって、講義に参加して『あ〜良かったな』と実感しました。

最初は『学んでみよう』という気持ちと、大学の講義ということもあり、知識が足りていない状況から講義についていけるか不安だったのですが、終わった頃には『このまま模索して続けていけばいいんだな』と思えるようになりました。

取材をしている中でも、いろんな立場の人たちがいて、単に宇宙が好きって人も沢山いるので、そういう人たちが宇宙産業に入っていくことでアイデアも活発になっていくと感じました。

(田中先生)

そうですね。

宇宙に興味を持ってもらえる裾野をどんどん広げていけば、ビジネスに繋がっていくと思います。

ただ、ビジネスをする上では、『何の為にそのビジネスをするの?』とビジネスをする意味を持っておくことが大切で、ただ好きだから、面白そうだからではなく、もっと先を見て欲しいと思っています。

一人一人がもっと先を考えることで、よりいい物が出来上がるし、その人自身の想像力、発想力も実現性も膨らむので『何の為にそのビジネスをするの?』という考え方は必要です。

国際協力の時代を経てきているので、『地球文化というものが必要』だと思っています。

自国第一主義ではなく、宇宙の分野では世界がチームとして協力して地球を守る事が大切だと思っています。

実はこの話はTEDxというプレゼンテーションイベントで話した内容でもあるんです。

(池田)

TEDxは知りませんでしが、ぜひ見させていただきますね!

https://www.youtube.com/watch?v=qYaSfGDVAQM

 

(田中先生)

月や深宇宙にいくということは目標としては必要ですが、そのために技術開発が進み、一般の社会生活に活用できることがいっぱいあるということをみんなが理解することで、宇宙開発をしている意味、人類のために宇宙開発をしているという事実を分かってもらいたいですね。

宇宙といったら『素敵だな〜』という時代は終わって欲しいんですよね(笑)

(池田)

そうですよね!星を眺めるだけじゃない!ってところをみんながやって行かなければですよね!

野口宇宙飛行士が日本人で初めて民間のロケットでISSに行くのは、ずっとISSに携わっていた田中先生として思い入れってありますよね。

(田中先生)

もちろんありますよ!

JEMが打ち上がった時も管制塔にいたのですが、走馬灯のように駆け巡る想いと、『お嫁に行っちゃうのかー』という気分で胸に詰まる想いでしたね。

そこに日本人宇宙飛行士が行って長期滞在しているということは毎回感じるものがありますね。

(池田)

そうですよね!お話し伺っただけでも考えつかない様なところまで考えてやっていて、色で上下感覚を持たせるとか思いつかなかったですよ。

(田中先生)

上下感覚は『単に宇宙に行く』という事だけでは中々出てこない部分ですが、

人間工学などのいろんな文献を読んで、色の他にも、密室空間での音や、人間と人間の感覚の距離など、精神的安定の為の窓の必要性など挙げていけばまだまだ出てきちゃいますね(笑)

こういった考え方が大事!というわけではなく、これからの社会の為に考えて、より良くしていってほしいですね。

(池田)

ISSにずっと携わってこられた田中先生が、次の世代や一般の人向けに『こうなっていってほしい』と話してくれるのは私個人としてはとても勇気をもらっています!

実績のある立場の人から今後の宇宙利用や学びの部分にメッセージをくれているのは、私側の立場としては、とても貴重な時間ですし、有難いことでしかないですし、本当に勇気をもらっているので、田中先生にインタビューさせて頂けて嬉しかったです!

最後に、宇宙を目指している人にメッセージを頂けれと思います。

(田中先生)

宇宙の視点から世の中を見てほしいです。

視点を変えることで、発想力や想像力が変わってきますし、俯瞰的に見る力が培われます。

突き詰めていって、視野が狭くなってしまうのではなく、もっと大きないろんな角度から見られる様にしてください。

地球の表面の動きだけでは二次元の視点ですが、宇宙から見ることで三次元の視点になり、今までとは違った発想が出てくるかもしれません。

そうすれば今よりも、もっと広がりをもてるのできっとヒラメキに繋がりますよ。

(池田)

田中先生、ありがとうございます。


いかがでしたでしょうか?

ついつい大ボリュームになってしまいましたが、ISSの設計から携わって来られた田中先生のお話は貴重な知識になるので、たっぷりと掲載させていただきました!

しかも!追加での取材も決定しているので、インタビュー記事の第2弾もお楽しみに!!

今ちょうど実施されている基礎コースにも参加していて、念願の実習にも参加させてもらったので、その体験記事も近々掲載しますのでお楽しみに!